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No.5335
和泉守(河原崎城跡) 652.8m四等三角点峰
山行種別 無雪期一般
いずみもり(かわらざきじょうあと) 地形図

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山行期間 2016年5月22日(日)
コースタイム 河原崎城跡駐車場(13:39)→東口登り口(13:46)→和泉守・河原崎城跡(14:17,14:23)→西口登り口(14:47)→二渡神社(14:54,14:56)→河原崎城跡駐車場(14:57)
写真 写真は拡大して見ることが出来ます
河原崎城跡駐車場 東口登り口への入口 河原崎城跡入口の標柱が建っている
民家の脇を抜ける 車も入れる作業道 東口登り口
南会津町が建てた森林整備の看板 山頂まで登山道が整備されている 杉林コースの分岐
ツツジが花を付けていた 第一展望台からの眺め 道はどこまでもジグザグに高度を上げていく
第二展望台 堀切と城跡の分岐 堀切からの眺め
山頂にはベンチもある 山頂の祠 四等三角点がある
山頂から麓が良く見える 和泉守山頂標高653mの標柱 気持ちの良い樹林帯の中を下る
西口登り口に到着 作業道を進むと民家の脇の道路へ出る 駐車場の斜め向かいにある二渡神社

行動記録
 和泉守は伊南川を挟んで国道289号の対岸、南会津町(旧南郷村)和泉田にある。麓には二渡神社があり、かつての山城・河原崎城跡(和泉田城)でもある。また山頂まで登山道が整備されている。
 県道351号(大倉大橋浜野線)で和泉田に入ると山側に二渡神社があり、道路の反対側に河原崎城跡駐車場がある。案内板も比較的新しく、駐車場も含めて整備されてそう経っていないようようだ。里山は概して車を止める場所に苦労したり、うさんくさい目で見られることが多い。出来るだけ地元の人に声を掛け山に入る理由を話したり、世間話をしたりと気を使うようにはしているが、この山は訪れる人のために折角駐車場まで用意してくれているので、登らない手は無いだろう。
 駐車場の向かい側に「河原崎城跡入口」の標柱があるので、舗装された細い道を入る。民家の脇を抜けると未舗装路となりスギの造林地へと続いている。作業道路は二股になるので右に入り小沢を渡ると「東口登り口」の標柱が出てくるので右の登山道に入る。良く手入れされたスギ林だ。少し行くと登山道はスギ林コースと東口登り口とに分かれる。山頂へは左の東口登り口のコースを進む。トラバースするように緩やかに登って行くと、西口との分岐に着く。左が山頂への道だ。ここから尾根伝いに登ることになるが、勾配はキツイものの登山道はどこまでもジグザグに付いていて楽に登って行ける。山城だったころは、敵から守るために当然険しい急な道だったと思われる。この山城跡には麓の根小屋や山頂付近の要害部には主郭、二の郭、三の郭が残っていて、土塁や堀切なども確認できる。このような山間部にも貴重な歴史があり、調べ始まると奥が深い。
 途中には第一展望台、第二展望台があり、樹林に覆われた鬱蒼とした山だが、展望が楽しめる。「堀切り」案内標柱に導かれて入っていくと、絶好のビューポイントに出る。小さなベンチもあり、大曽根山や伝上山など旧南郷村の山々が見渡せる。一段高いところが主郭である和泉守の山頂だ。小さな石の祠と四等三角点がある。南側は堀切になっていて二の郭、三の郭へと続いている。歴史好きの人にはたまらない場所だと思う。
 さて、車に戻ることにしよう。下山路は西口登り口へと下る。最初は登ってきた道を下り、先ほどの西口分岐から左に入る。道は鬱蒼とした樹林帯の中を下がっていく。途中、右にスギ林コースを分ける。ここから右に折れれば東口登り口に戻ることが出来る。西口登り口は真っ直ぐ下り、次に道は左に向かって進路を変える。610m台地から一段下がると西口登り口に出る。作業道で地元の方のバイクとすれ違う。少し進むと民家の脇の舗装路に出る。ここから県道に出ても良いが、一本裏側にも道路があるので、そこを通って二渡神社へと戻った。駐車場の河原崎城跡の案内板に次のように記されていた。(I.I)

                   河原崎城の戦い
 本城がいつ頃築かれたのかは記録になく不明です。本城の最後の城主は五十嵐和泉守正道という人でした。この正道は「四家合全」によると山内氏勝の妹が河原田盛次に嫁ぐ時に付家老として山内家中より伊南家中に同道した人物とされています。
 さて、天正17年(1589)6月2日、会津葺名氏を破った伊達政宗は、同年8月24日、この河原崎城にせまりました。以下、この戦いをもっとも詳しく記す「泉忠記」に基づき述べます。
 道正の率いる軍勢は300名程であったそうです。この援軍として河原田方の兵220人が富沢口に、また上杉影勝より派遣された1500の兵が大倉に控えました。しかし、この2隊は結局、控えるばかりでこの戦に参加しませんでした。一方、伊達軍は田島の長沼盛秀軍を糾合した4000名程の圧倒的軍勢でした。
 戦いは、最初、搦手(城の北面)から急坂を登ろうとした伊達軍に対し、和泉田軍が山上より石弓で攻撃し多くの伊達兵が亡くなりました。戦法に窮した伊達軍は故あって和泉田側から伊達側に寝返った福田勘助なる人物に道案内させ、城の西側の山から大量の鉄砲攻撃に打って出ました。また、信濃沢を遡上して城の南側に位置する大手から攻め入るなどして和泉田軍に深刻な打撃を与えました。道正は鉄砲疵や矢疵を数カ所負い、やがて落城を悟ります。そして夫婦共々自害することを選び、これによりこの戦の勝敗は伊達軍に上がりました。
 伊達軍は帰途、200名程の和泉田勢の首を二渡神社から根岸まで、約400メートルに渡って掛け並べていったとのことです。また、この戦を記録した伊達家側の記録では「城中の者ども、残り無く撫で斬りにせしむ」と見え、この戦のすさまじさが伝わってきます。一方、伊達側の死者も大将の屋代勘解由、梅津籐兵衛をはじめとして800人余りにのぼり、両軍合わせて1100名ほどが亡くなるというこの年の伊達政宗の会津侵攻においては摺上原の戦いに次ぐ壮絶な戦いが行われたのでした。

 

空間放射線量
観測地点/特徴
時間
空間線量率(単位:μSv/h)
測定位置高さ100cm
緯度/経度
最大値 最小値 平均値
Data1 河原崎城跡駐車場/砂利
時間 13時37分
0.096 0.095 0.096 北緯 37゜16' 48.52"
東経 139゜29' 55.28"
Data2 東口登り口/スギ造林地
時間 13時46分
0.091 0.087 0.089 北緯 37゜16' 41.70"
東経 139゜29' 51.68"
Data3 西口分岐/混交林
時間 13時56分
0.069 0.063 0.066 北緯 37゜16' 42.28"
東経 139゜29' 41.09"
Data4 第一展望台/混交林
時間 14時03分
0.068 0.066 0.067 北緯 37゜16' 40.18"
東経 139゜29' 41.14"
Data5 第二展望台/スギ
時間 14時09分
0.069 0.064 0.066 北緯 37゜16' 38.70"
東経 139゜29' 41.94"
Data6 堀切/灌木
時間 14時16分
0.039 0.033 0.036 北緯 37゜16' 36.62"
東経 139゜29' 45.24"
Data7 和泉守山頂・三角点/スギ、アカマツ
時間 14時18分
0.060 0.054 0.057 北緯 37゜16' 36.27"
東経 139゜29' 44.37"
Data8 西口登り口/スギ造林地
時間 14時47分
0.077 0.074 0.076 北緯 37゜16' 51.06"
東経 139゜29' 42.39"
Data9 二渡神社境内/スギ、サクラ
時間 14時56分
0.095 0.089 0.092 北緯 37゜16' 48.52"
東経 139゜29' 54.13"
特記 緯度経度はGPSの性能の関係で多少の誤差があります。
放射線測定器 PA-1100(堀場製作所)

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