ふと目が覚めると、既に時計の針は午前4時を指していた。昨夜間違いなく目覚まし時計を午前1時15分にセットしたのは覚えている。どうもセット時刻に鳴ったのを自分で止めてしまったらしい。昨日の睡眠不足も影響したのだろう。午前2時から登り始める予定の山行計画も台無しである。今日はここ数年来考えていた計画を、いよいよ実行する日であるというのに。中止の2文字が頭をよぎる。今日は行動時間の長い山行なので、大幅な朝の遅れはリカバリーが困難なのだ。普通なら中止か計画変更の判断をするしかない。しかし、一瞬迷ったが決行することにした。今日はやる気・元気・天気の3つの気が揃っているのだ。コースタイムが遅い場合は、途中でエスケープしての下山もありうるだろう。その判断を間違えずにやればいい。歩けるだけ歩き、やれるだけやってみよう。そう気持ちが固まるとザックを車に放り込み、登山口へと車を走らせた。
今日の計画は、蔵王連峰の最南端に不忘山から主稜線の全山を縦走し、続けて笹谷峠から二口山塊も縦走し、面白山高原駅まで1日で到達し電車で帰宅するというものだ。このルートで縦走した記録を読み、それ以来気になっていたのだ。自分にとって南蔵王の山々、特に不忘山は朝に夕に眺めている身近な山であり、南蔵王縦走路は何度か歩いているが、北蔵王はまだ通して縦走したことが無い。また、二口山塊は部分的に歩いたことがあるだけだ。どうせなら面白山高原駅までをワンデイ(1日)で縦走すれば、より魅力的な山行になりそうだ。ただしその場合、記録のように面白山まで縦走しようとすると、自分の足では1日で抜けることはほぼ不可能。しかし、南面白山から面白山高原駅に下るルートなら何とかなりそうだ。いつしか自分の中で気持ちが固まり、あとは実行時期をいつにするのかだけになっていた。しかし昨年はタイミングを掴み損ね、今年に持ち越していた課題なのだ。さて、このルートを調べると距離40q以上、累積標高差は地図上でざっと計っても+3500m、−3800m以上にもなる。実際の累積標高差はもっとあるだろう。自分にとって未経験の距離と累積標高差ではあるが、これまでの山行経験から考えて、何とか歩き通せるだろうと考えた。計画行動時間は、午前2時スタートで午後6時ゴールの16時間とした。この長い行動時間も、自分としては未経験の領域になる。
硯石登山口から登り始めたのは午前4時44分。予定よりなんと2時間44分も遅れてのスタートである。不忘山頂までは約1000mの標高差がある。スタートが遅れたとはいえ先は長いので、花を撮影しながらペースを抑えて登る。下界は雲海で覆われているが、上は晴れわたり朝の空気が清々しい。山頂には1時間38分で到着した。足を止めることなく先に進む。南屏風岳には3時間で達する計画だったが、あっさり2時間5分で到着。息を荒げるでもなく、普通に歩いてのこのタイムに気を良くする。前半にこの調子で時間を詰められれば、ヘッデンを使わずに下山できるかもしれないとの期待も湧いてくる。南屏風岳で今日初めて水分とエネルギー補給をする。今日は1.5〜2時間間隔で補給するつもりだ。
南屏風岳からはしばらく稜線漫歩になる。前から人が歩いてきた。横浜から来たという男性と少し話しをする。屏風岳を過ぎたあたりから次々とスライドする人が現れた。6月の南蔵王縦走路は花街道として人気で、刈田峠側から不忘山をピストンする人も多い。鳥海山までは見えなかったが、吾妻に飯豊、朝日、月山などの東北の名峰が、ぐるりと一望できる稜線歩きは楽しい。芝草平はチングルマとヒナザクラなどが咲いていたが、年々乾燥化が進んでいるようで気になった。すれ違う人にどこまでと聞かれるが、笹谷峠までと控え目に答える。それでも驚かれるのがちょっと小気味よい。前山からの下りでは、地元の小学生達の学校登山とスライド。登ってくるのを待って頑張れと声をかける。若いカップルも歩いてきたりして、平日の朝とはいえやはり人が多い。合計60人以上とスライドし、南蔵王縦走路の入口となるエコーラインに到着。そこから刈田岳までは、舗装路を6回も横切って登る。
刈田岳には登山者と観光客が半々で、山頂神社も営業開始している。レストハウスで今日2回目の休憩とする。今日担いできた水は2.5リットル。もちろん足りるわけはないので、洗面所で1.5リットル補充させてもらう。飲めませんとは書いてないから大丈夫だろうと勝手に判断。貰っただけでは悪いので、自販機で0.5リットルの水を購入して飲む。これで計1リットル消費したが、これ以降は補充の予定はないので、残り3.5リットルで歩き通さなければならない。余裕はないので無駄な汗はかけないが、天気が良いので歩けば暑くて汗が出る。縦走の成功には水対策が鍵となるが、蔵王の縦走路には水場があまり無い。二口山塊もそうである。飯豊連峰や朝日連峰の場合、稜線に水場があるのとは対照的である。縦走路を外れればあるのだが、数は少なく往復にかかる時間と体力の消耗が問題になる。夏場は出ているかどうか怪しい水場もある。今回はやらなかったが、笹谷峠に前もって水をデポしておくのも一案だろう。10分ほどの休憩後にまた歩きだす。馬の背で紫外線対策でフルマスクの山ガール達と、ゆっくり仲良く歩いている年配夫婦を追い抜く。お釜を右下に見ながらちょっと登り、熊野岳避難小屋に9時17分到着。
今回は全行程を3区間に区切って考えている。始めは硯石登山口から熊野岳避難小屋まで。ここは南蔵王と中央蔵王のエリアになり、それなりに人がいる区間だ。次は熊野岳避難小屋から笹谷峠までで、この区間は北蔵王エリアになる。南・中央蔵王に比べると、歩く人もぐっと少なくなり静かな山歩きとなる。次は笹谷峠からの二口山塊エリアで、こちらも縦走する人は少ない。計画では熊野岳避難小屋までの所要時間を5時間30分としていたが、何とか4時間33分で到着した。まずまずだが、スタートの2時間44分の遅れはあまりに大きすぎて挽回しきれない。とりあえず笹谷峠まで歩いてから考えることにしよう。熊野岳避難小屋から北蔵王縦走路に入ると、登山道脇のコマクサがピンクのつぼみを付けていた。名号峰へと下り始めてすぐ、2人連れの登山者とスライド。聞かれたので面白山まで行くというと、え?と笑われてしまった。冗談と思われたらしい。その後は自分以外歩く人もいなくなった。そのうち稜線にはガスが流れてきて、見え隠れするようになってきた。ツマトリソウやゴゼンタチバナなど、足元の花を見ながらの歩きが続く。名号峰を過ぎても縦走路は標高を下げ続け、標高1200m辺りまで下げるとまた登り返す。登山道脇を見ると、ハクサンシャクナゲが咲いている。やがて八方平避難小屋に着いてひと息つく。名号峰から八方平避難小屋間は今回初めて歩いた道。小屋では大工さんだろうか、5〜6人で扉などの修理作業中だった。ここまで7時間15分の計画に対し、6時間12分で到着した。足を止めると今日初めての疲労感があるが、まだまだ先は長いと気を引き締める。
八方平避難小屋で10分の休憩後に再び歩きだす。200mほど登ると南雁戸山、すぐ100m下ってまた100m登ると双耳峰の雁戸山。この登り下りの繰り返しが徐々に足にきいてくる。雁戸山には3人の登山者がいた。雁戸山は山形側からよく見えて登山者も多いが、鋭峰でヤセ尾根の急登もあり登りごたえのある山だ。蔵王全山縦走の最後のピークであり、今日の全行程の半分ほどの位置にある雁戸山を踏みしめ下りにかかる。急斜面を登ってきたガイド登山のパーティーをやり過ごし、一歩一歩慎重に下る。分岐で間違い慌てて戻ったり、滑りやすい道に手間取るが、標高906mの笹谷峠に13時16分到着。雁戸山からは600m近い下降である。広い駐車場には登山者やドライブの車が10台ほど。計画では11時25分到着予定としていたので、1時間51分遅れということになる。ここに来て初めて、ペースが落ちてきたことを実感する。日射しと気温の高さでバテ気味なのは事実だ。さて、このまま進むか中止とするか悩む。ここで中止するのなら、笹谷の集落まで歩いて下りても2時間弱だろう。笹谷からはバスと電車で帰宅できる。休憩しながら自問自答したが、自分の体力を信じて進むことにした。ここでヘッデン下山は確実となった。
笹谷峠からは二口山塊へと入る。全行程も残り3分の1と思いたいところだが、この区間が距離も標高差も一番大きい。体力の消耗が想定していたより激しいのは、暑さに伴う大量の発汗は今シーズン初めてであり、まだ体が慣れていないということもあるのだろう。ハマグリ山への登りも普段なら何ということもない程度だが、今は息を荒く喘ぎ何度も立ち止まり、ゆっくりだましだまし歩くしかない。この登りで下ってきた単独女性とスライドしたが、これ以降は電車に乗るまで人に遇うことはなかった。普段なら山形神室までは気持ちの良い稜線歩きなのだが、今はそれを楽しむ余裕も無くなった。山形神室の登りで、左手の笹ヤブでガサガサと音がした。何かの獣だろうと声を発したが、こちらが登ると向こうもガサガサと付いてくる。数10メートルつかず離れずだったが、無視して登るといつの間にかいなくなったようだ。この後に大きな熊糞を見つけた。熊だったのかもしれない。そのうちガスが濃くなり少し風も出てきた。涼しくなり有り難く感じる。やっと着いた山形神室から以降は、ガスで眺めが得られなくなった。山形神室のすぐ先にある仙台神室と清水峠の分岐から先は、今回初めて歩く道となる。
笹谷峠から山形神室間の計画タイムは70分だが、なんと97分もかかってしまった。いよいよ足が動かなくなってきたようだ。下りや平坦なところは問題無いが、登りになるとガクッとペースが落ちる。登りで使う筋肉の疲労が激しい。ちょっとキツイ登りになると、何度も何度も休みながらでないと登れなくなってきた。これほどまでの疲労感は今までなかったかもしれない。小さなアップダウンを繰り返す地形が恨めしい。標高が低くなったので、縦走路は樹林帯の中になる。風の通らない樹林帯は蒸し暑ければたまらなかっただろうが、幸い気温も下がってきたようで助かる。ここまで1.5〜2時間おきに取っていた休憩は徐々に間隔が短くなり、登りではしょっちゅう立ち止まって休むという状況になっている。あと何キロあるのだろう、いや、あと何時間かければ終わるのだろう。
アップダウンを繰り返し清水峠を越え、尾根道を下っていくと突然林道に出た。県境を跨ぐ二口林道だ。すぐ上に閉じられた開かずのゲートがある。二口林道は滅多に通行可能になることがない。林道を少し下ると二口峠に到着。時刻は既に午後4時26分。ガスっていることもあり少し暗くなってきた。この頃になると計画がどうのではなく、目先の登りと残りの距離が関心の中心になる。意を決してまずは糸岳への300m近い登りにかかる。疲れ切った足にこの登りは辛かった。これほど足が上がらないことは今まで一度もなかった。それでも二口峠〜糸岳間を45分で登ったが、もはや登りに使える体力が尽きかけている。水も残り少なくなってきた。休んでいても息だけがハアハアと荒い。電波が通じるので、山岳会と自宅に下山は午後8時過ぎになるであろうことをメールする。ビバークさえ頭をよぎるが、まだ結論を出すのは早いだろう。糸岳の山頂を過ぎてもアップダウンが続き登りに苦しむ。小東峠には午後6時1分着。ここから山形県側にエスケープすることもできそうだが、道は通る人も少ない雰囲気で距離もある。自分としては前に進むのみだ。既に薄暗くなってきた笹の被る道に踏み込み、南面白山を目指す。
50mほど登ると小東岳の分岐で、右へ向かうと鞍部に下る。ここから1216mピークまでの約200mの登りは、開き直ってゆっくりゆっくり登る。10m登っては休み、5m登っては休みという感じだ。1216mピークまで登ると鞍部まで約130m下り、また約140m登り返さないと南面白山の山頂とはならない。最後の最後までアップダウンが続く。午後7時を過ぎるとさすがに暗くなり、左手に街の灯りが見えてきた。1216mピークの下り途中で休憩しながら、山岳会と自宅に午後9時過ぎの下山見込みを連絡する。もし足が完全に止まればビバークだが、先が見えてきたことで少し元気も出てきた。行ける、行くしかないと自分に言い聞かせる。南面白山への登り途中、午後7時30分過ぎにヘッデンを点けて最後の水を飲み干す。山頂には午後7時50分到着。ついに登りから解放される時が来た。小東峠からはなんと109分もかかってしまった。計画では75分、疲れていなければ60分程度で歩けるのであろうが、疲労困憊の状況ではこれがやっとだ。後は下るだけだが、ヘッデンでの急な下りは危険でもあり慎重に歩く。廃止となった面白山スキー場のゲレンデ跡まで下ると、斜度も穏やかに歩きやすくなる。舗装道路に出て数軒しかない民家前を過ぎると、無人駅の面白山高原駅に到着した。時刻は午後9時3分。今朝スタートしてから16時間17分が経過していた。終わった。ただただ終わったというのが実感だ。いや、これから帰宅しなければならないが、それももはや疲れた体を休められる時間にしか思えない。山岳会と自宅に下山報告をする。体を拭いて着替えをし、誰もいない待合室で午後10時12分の最終電車を待つ。不思議と眠気も覚えず仙台で乗り継ぎ、白石に到着した時は日付が変わっていた。登山口に置いた車は朝取りに行くことにし、自宅までビールを飲みながら30分以上歩いて帰宅。これにて山行完了!(K.Ku)
= まとめ =
【水】
今回水は4.5リットル消費した。もともと自分はそれほど水を飲む方ではないのだが、それでもこの量である。もっと暑い日であればさらに必要であっただろう。この時期は水に不安があっては行動できない。かといって10リットル担ぐわけにもいかない。ワンデイで歩こうが2泊3日で歩こうが、水場が山行成否のポイントになるのでしっかり考えておく必要がある。水場は、刈田岳のレストハウスの他に、笹谷峠〜雁戸山の山形側コースの途中に水場のプレートがあるらしいが、今回は見落としてしまい未確認である。また、山形神室と清水峠の中間点で山形側へ少し下りた、鎌沢の源頭が水場らしいがこれも未確認である。飲む間隔は長かったようで、もっと短い間隔(15〜30分)で飲むべきなのだというが、補給との兼ね合いもあり難しい。
【エネルギー】
行動食はいつものようにパンとしたが、これはちょっと失敗だった。3000キロカロリー分のパンを持っていったのだが、結局食べることが出来たのは2150キロカロリー分だった。明らかにエネルギーが不足しているが、それ以上食べることが出来なかった。自分の場合、激しい行動中はあまり食欲がないのだが、前半は口に押し込んで水で流し込んだ。しかし、後半は徐々にパンを食べることが出来なくなっていった。パンのような固形物は消化に時間がかかり即効性はない。エネルギー補充タイプのゼリー飲料なら、飲み込みやすいし吸収も速い。食べる間隔ももっと短く、1時間程度にするのが良いようだ。なお、塩分補給も兼ね、塩飴を10個程度消費した。非常食はカロリーメイトを600キロカロリー分持参した。
【シューズ】
足元は運動靴にした。ジョギングシューズやトレイルランニングシューズというわけではなく普通の運動靴。ただし、ソールがフラットなタイプの物を選んだ。なるべく素足に近い感覚で歩きたかったのだ。結果、最後まで豆や靴擦れもできず、足を気にすることもなく歩き通せた。自分の歩き方には合っていると言えるだろう。ただし、人により向き不向きがあるので、何を履くかは、実際に自分で何回も長距離を歩いて決めるのが一番と思う。
【装備】
装備はもちろん必要最小限とした。水2.5リットル、食料、ウインドブレーカー、カッパズボン、着替え、シュラフカバー、ティッシュや救急絆、ライターなどの小物、ヘッデン、ロープ(10m)、現金と保険証など。これで30リットルのザックは一杯になり、重さは8キロ近くになった。シュラフカバーはツェルトにするか迷ったが、ビバーク時にサッと潜りこみ数時間眠れればいいと考えた。雨の時は岩陰などを探すしかないが、今回は割り切った。ロープ(10m)は6ミリの細い物だが、エマージェンシー用に持参した。省略するとしたらこのロープだろう。なお、装備はすべて手持ちの物で間に合わせたが、本当ならもっと軽量化したいところだ。行動中はあまり重さは気にならなかったが、担ぎ上げるときはずっしりとした重さを感じる。その分の負担は確実に足にかかっている。
【体力】
今回の移動距離は43.2kmである。累積標高差は+4,245m−4,516mにもなった。 いずれもGPSのデータによるが、あまり細かい変化を拾わないよう10m間隔の記録としたので、ほぼ実態に近いのではないかと思う。後半はバテバテだったが、行動時間は計画の16時間に対して16時間17分とまずまずだった。自分の体力の計算はほぼ的確に出来ていると思う。ただし、55歳の自分にとって今回の距離と標高差は、ワンデイとしてはほぼ限界だった。来年また出来るかと問われたら、まったく自信はない。今回は条件も良かったので可能だったように思う。今後も体力は年々低下していくだろうが、その時点での自分の体力をしっかり把握しておくことは、安全登山のうえでも必要なことであると考えている。なお、この程度の距離と標高差は、トレイルランの人たちなら普通のことだろう。速い人は7時間くらいで駆け抜けてしまうのではないだろうか。
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